■FUTURES MONTH
イギリスの植民地であったグレナダは1975年に独立した。当時、首相だったエリック・ゲーリーとその一族は組織化したギャングによる敵対派への厳しい対応で知られており、外国資本と癒着し独裁を強め失業と貧困が広がり深刻化していった。
これに対し福祉や教育や自由の共同努力を掲げる「ニュー・ジュエル運動」を中心としたクーデターが1979年に起こり、これによりゲーリー政権は軍・秘密警察と共に崩壊した。そして、新たにモーリス・ビショップが首相に就任し、ビショップ首相は人民革命政府を樹立した。ビショップ首相らの人民革命政府は商工会議所など国内各所層の幅広い支持を受け医療や教育や観光事業の近代化に着手していった。非同盟・中立を掲げアメリカが経済封鎖をしているキューバとも友好を築き、キューバとの関係を強化していった。アメリカはこうしたビショップ政権を敵視するようになる。1981年に就任したレーガン米大統領は「強いアメリカ」を自負し、就任直後からグレナダ侵攻を想定した軍事演習をプエルトリコのビエケス島で行うなど圧迫を強めていった。
1983年10月に政権内でクーデターが起こり、ビショップらが処刑され、ハドソン・オースティンを首班とする革命軍事評議会が設立されるとアメリカはこの混乱に乗じ、ソ連・キューバによるグレナダへの共産主義の影響を止めるため、武力介入を決断した。在グレナダアメリカ人の安全確保を理由にし、セントクリストファー・ネイビス、アンティグア・バーブーダ、ドミニカ国、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン諸島、バルバドスといったグレナダ侵攻を支持したグレナダ付近のカリブ海6カ国も共同出兵している。グレナダにレンジャー部隊、特殊部隊、海兵隊など6,000人以上の部隊を送り戦闘の末に政府を打倒した。この作戦は『アージェント・フュリー(Urgent Fury<押さえきれぬ怒り>)作戦』と命名された。
10月25日午前5時に開始されたグレナダへの侵攻は、アメリカにとって
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戦争以来初の大規模な軍事行動となった。戦闘は数日間続き、アメリカ兵7千人、カリブ海諸国から300人が投入され、グレナダ兵1500人およびキューバ人700人余り(ほとんどは建設労働者で、高度な軍事訓練を受けていた)と交戦した。このほか、グレナダ国内にソビエト連邦、北朝鮮、東ドイツ、ブルガリア、リビアから来た60人ほどの顧問がいた。
アメリカ軍は19人が死亡、116人が負傷し、グレナダ側では兵士45人、民間人は少なくとも24人が死亡し、兵士358人が負傷した。また、キューバ人は24人が死亡、59人が負傷し638人が捕虜になった。
一方でグレナダを支援していたキューバから派遣されていた700人余りの技術者や労働者、軍事顧問が戦闘に参加し、アメリカ軍に対しポイント・サリンス国際空港などで抵抗を行った。またインドから200人、中華人民共和国から82人の歩兵が戦闘に参加している。
島は侵攻から1ヶ月ほど経過した12月15日に完全に制圧され、島内にいたキューバや北朝鮮、リビア、東ドイツ、ブルガリアの国籍を持つ人々は軟禁を受けた。
アメリカ軍にとって本格的な武力侵攻はベトナム戦争以来であったが、この侵攻作戦の成功によって自信を回復した。しかし翌年にレバノン内戦の介入に失敗し、その後レーガン大統領在任中に大規模な軍事的な活動は行えなかった。
グレナダ侵攻を命じたレーガン大統領は、同侵攻について行った演説で、映画「ダーティハリー」の中でクリント・イーストウッド演じるハリー・キャラハンが吐いた名台詞「Go ahead. Make my day.(やれよ。楽しませてくれ。)」を引用、 物議を醸した。
そのクリント・イーストウッドは、後に自らが監督・主演した映画『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)で、グレナダ侵攻を扱った。
1917年のロシア革命に際して、南カフカスの
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民主共和国とアゼルバイジャン民主共和国がそれぞれ独立したが、ナゴルノ・カラバフの帰属を巡り1918年に両国間の戦争が起る。イギリスの介入により、一旦は領土問題がパリ講和会議に持ち越されることとなったが、ソビエト軍が南カフカスを制圧し、両国をソ連邦構成共和国であるザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国に編入すると、ボリシェヴィキの手によってナゴルノ・カラバフの帰属が決定されることになる。
ボリシェヴィキの民族問題担当人民委員ヨシフ・スターリンの下にカフカス委員会が設置され、委員会は4対3でナゴルノ・カラバフをアルメニアに帰属させることを一旦決定したが、その後アルメニアで反ソビエト反乱が起りボリシェヴィキの心証を害し、アゼルバイジャン側による強い抗議もあったため、委員会は決定を覆し、ナゴルノ・カラバフを自治州としてアゼルバイジャンの下に置くこととした。当時のナゴルノ・カラバフの人口の94%はアルメニア人であった。
両国が争っているのはアゼルバイジャンの西部にある山岳地帯に存在するアルメニア人居住区である「ナゴルノ・カラバフ自治州」である。このナゴルノ・カラバフ自治州は住民の4分の3がアルメニア人である。この自治州がソ連崩壊直前からアルメニアへの帰属を求め、アゼルバイジャンとの紛争になったのである。
アルメニアとアゼルバイジャンはともに中央アジアに位置しており、黒海とカスピ海に挟まれているカフカス山脈の南に存在する。しかし、隣り合う両国は、民族、宗教ともに大きな違いがある。アゼルバイジャンはトルコと友好関係にあるイスラム教(シーア派)が多数住む国であるが、その一方、ロシアと強固な関係をもつアルメニアは、キリスト教国である。1988年に、ナゴルノ・カラバフ自治州に住むアルメニア人が、アルメニアへの帰属をアゼルバイジャンに要求すると、アゼルバイジャンは自治州を廃止、共和国が直轄統治するという措置を取ったのである。当然だが、ナゴルノ・カラバフの住民はアゼルバイジャンに対して強い反発をした。ソ連の崩壊に際し、両国は共に1991年に
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を果たすが、1992年に、ナゴルノ・カラバフ側が一方的に「ナゴルノ・カラバフ共和国」として独立を宣言したのである。これをきっかけに、紛争が勃発。さらに、ナゴルノ・カラバフ側にはアルメニアが加担し、本格的な戦争に発展した。1994年にロシアとフランスが仲介を請け負い、停戦が成立した。この紛争により、2万人の死者が発生し、難民にいたっては100万人以上が発生した。
この停戦の際の調停案の和平案には「アルメニアが占領したアゼルバイジャンの領土の返還」「ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンに帰属後は自治共和国に昇格」などと書かれており、この紛争を有利に進めてきたアルメニア側からすれば、納得できるようなものではなかった。そのため、アルメニアがナゴルノ・カラバフを占拠したままになっており、ナゴルノ・カラバフの帰属問題は未だに解決の目処は立っていない。
国境線の引き直しを認めると更なる紛争を惹起しかねないという懸念から、ロシア・西側諸国ともに国境変更に対して極めて慎重であるためこのような調停案になったのだが、アゼルバイジャンがバクーに油田を持っており、経済的な理由から調停側がアゼルバイジャンを優遇せざる得なかったとする見方[1]もある。
アフガニスタンは1979年12月からソビエト連邦による軍事侵攻を受けたが(詳細はソビエト連邦のアフガニスタン侵攻を参照)、1988年4月の米・ソ・アフガン・パキスタン四国和平協定によって和平が成立、1989年2月までに全てのソ連軍が撤退した。
しかし、10年に及ぶ対ソ連戦争で秩序が完全に解体されたアフガンでは、それまで共同でソ連と戦っていた多くの派閥が覇権をめぐって挙兵し、互いに争う有様となった。その派閥の中でも、
ラッバーニー率いるタジク人主体の「イスラム協会」
ドスタム率いるウズベク人主体の「イスラム民族運動」
ヘクマティヤール率いるパシュトゥーン人主体の「イスラム党」、
ハザラ人主体のシーア派勢力「イスラム統一党」
などが有力であった。結局、第一次内戦は1992年4月に派閥間の和平がなって終結し、1993年3月には和平文書が調印された。
しかし、翌1994年1月には和平協定は破棄され、大規模な軍事衝突となった。この第二次内戦の最中に台頭したのが、イスラム原理主義勢力のターリバーンであった。当初のターリバーンはゲリラグループであったが、パキスタンから多大の支援を受けて勢力を伸ばし、パシュトゥーン人地域をほぼ支配下に置いた。そして1996年9月には圧倒的な軍事力をもって首都カーブルに入城してこれを制圧し、「アフガニスタン・イスラム首長国」の成立を宣言した。
政権を奪取したターリバーンは支配地域にイスラム法に基づく厳正な統治を行った。当初、市民からは秩序の回復として歓迎されたが、欧米的な娯楽の禁止や犯罪者の公開処刑などを行ったため人心を失い、また先進国からは行き過ぎた人権弾圧だとして非難を浴びた。さらに2001年3月のバーミヤン石仏爆破は、偶像崇拝を禁止するイスラムの教義に忠実な行為ではあったが、貴重な文化遺産の破壊であるとしてイスラム諸国からも非難を受けた(偶像崇拝禁止と同様に、信教の自由を認めるのもイスラムの教義であり、このような過激な行動は本来のイスラムではないという意見がある)。
一方、北部のキルギス・タジキスタン
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に追い詰められたグループは北部同盟を結成してわずかな地域(バダフシャーン州)を拠点に反攻を続け、ターリバーンはこれを攻略できずに戦線は膠着した。2001年9月初めには北部同盟軍を指揮するマスード将軍が暗殺され、北部同盟には大きな痛手となった。
この膠着状態を破ったのはアメリカだった。この年の9月11日に発生した同時多発テロの報復として、米軍は10月7日からターリバーン支配地域の空爆を開始、これに続いて北部同盟が反攻してカブールを奪還、最後の拠点となったカンダハルも攻略してターリバーン政権を消滅させた(アメリカのアフガニスタン侵攻)。12月には各派合同の暫定政権が発足し、翌2002年6月にはハーミド・カルザイが主体となった移行政府が成立、2004年に選挙による政府が発足、カルザイが大統領となって国家統一が果たされた。
2008年現在でもアフガニスタン全土でターリバーン残党などの反カルザイ勢力によるテロが発生しているものの、カルザイは各派閥の武装解除をおおむね順調に進めている。