■GASOLINE

マヌエル・ノリエガの軍事独裁下にあったパナマでは、麻薬交易の温床となっているとされており、非民主的な政治体制が原因で中米各国の中でも孤立していた。 1989年1月、アメリカ合衆国大統領に就任したジョージ・H・W・ブッシュは麻薬撲滅を掲げていたが、1989年10月に発生したパナマ軍少佐ヒロルディら軍の一部によるクーデターを支援せず、モイセス・ヒロルディ(Moises Giroldi)によるクーデターは鎮圧され失敗に終わった。しかし、12月20日になって米国は米軍2万4,000名をパナマに侵攻させ、ギジェルモ・エンダラ(Guillermo Endara)を大統領に就任させた。ノリエガの率いるパナマ国家防衛軍との間で激しい戦闘が行われたが、米軍によって首都パナマシティが占領され、1990年1月にノリエガは米軍に投降した。 ノリエガはその後米国に身柄を移送され、1992年4月にフロリダ州マイアミにて麻薬密売容疑等により禁錮40年の判決を受けた(後に30年に減刑された)。また、パナマ国防軍は解体され、非軍事的性格の国家保安隊(国家警察隊、海上保安隊及び航空保安隊で構成される)に再編された。 侵攻作戦は麻薬撲滅を掲げて行われたが、1999年に米国がパナマへ返還しなければならなかったパナマ運河に関する交渉を有利に進めるためだったとも考えられている。一部では、ブッシュ大統領がアメリカ中央情報局(CIA)長官時代にノリエガの中南米撹乱協力の見返りにコロンビア産コカインの密輸入を秘密裏に容認していたため、自身の政治生命を守るために電撃的に発動したとされる。なお、麻薬撲滅という大義名分を掲げての予備校 だったにも関わらず、21世紀初頭のパナマの麻薬流通量はノリエガ時代の2倍に増加した。これはそれまで「国家」によって統制されていた麻薬の取引網が開放されたためと伝えられる。 この戦争において、アメリカは情報統制を行い、侵攻期間中の4大ネットワーク各局は、攻撃を受けたパナマ市民への取材はあまり行わず、侵攻に賛同する裕福な白人住民層の意見を中心に放送した。また、米軍の被害、死傷者数は積極的に報道したが、パナマ軍・パナマ市民がどれほど被害を受けているかについては、米国内向けにはあまり伝えられなかった。この情報戦略は2年後の湾岸戦争でもいかされることとなる。 エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称エチオピアは、東アフリカに位置する連邦共和制国家である。東をソマリア、西をスーダン、南をケニア、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれ、かつてはエリトリアを領有していたが、現在は内陸国となっている。首都はアジス・アベバ。 アフリカ最古の独立国として有名であり、またナイジェリアに次いでサハラ以南のアフリカで二番目に人口の多い国である。 公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia。 日本語の表記は、エチオピア連邦民主共和国。通称、エチオピア。他にエティオピアとも表記される。 国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という意味のアエオティプスに因むが、これはエチオピア人の肌の色に由来している。ギリシャ神話のパエトーンを参照せよ。また、別名のアビシニアは、アラビア語でエチオピア地方を指すアル・ハダーシュが転訛した物である。[要出典] ヨーロッパ人にはおせち と呼ばれていたが、1270年から1974年まで、1936年からの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除き、エチオピア帝国と称してきた。1974年のクーデターの後、1987年まで社会主義エチオピア、1991年までエチオピア人民民主共和国と称し、1995年に憲法改正によりエチオピアとなったが、1995年に再度の憲法改正によりエチオピア連邦民主共和国となった。 紀元前5世紀から10世紀くらいまで、ソロモン王とシバの女王の血筋を受け継いでいると称していたアクスム王国が、現在のエリトリアにある沿岸の港町アドゥリスを通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀でこのころコプト教伝来の影響が見られ、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。アクスム王国は、10世紀ごろにアガウ族の女首長グディトに滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたザグウェ朝(ca.1137,ca.1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。ザグウェ朝は13世紀初頭のラリベラ王のときに全盛期で、首都ロハには世界遺産にもなっている有名なラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、塗装工事 継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝(エチオピア帝国)と呼ばれる。ソロモン朝は、イクノ・アムラクの孫であるアムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。しかし、16世紀以降その力は衰え、1679年〜1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。 諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世であり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。メネリク2世の19世紀末に2度イタリアの侵略を受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的なできごとであった。しかし、第二次エチオピア戦争に敗れ、1936年から1941年は、イタリアの植民地(イタリア領東アフリカ)となった。1952年にエリトリアと連邦を組んだが、1962年にはこれを併合した。 1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および干ばつによる10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディス・アベバのデモ騒乱から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。軍部はアマン・アンドム中将を議長とする臨時軍事行政評議会 (PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムが PMAC 議長就任。恐怖独裁政治や粛正により数十万人が殺害されたとされる。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。 エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。ティグレ人中心のエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) のメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領、次いで1995年8月には新憲法が制定されネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは事実上の最高指導者である首相に就任、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。 1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展(詳細については、エチオピア・エリトリア国境紛争の項を参照)。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国連の安保理はPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE) 設置を決定。 2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に。 エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていない時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。詳細はエチオピア帝国を参照されたい。