■GOLD ACCUMULATION PLAN
この戦争でペルシャ湾に大量の重油が流出し、環境が大きく損なわれたと言われている。これについてアメリカ側は「負けたイラク側が退却するために煙幕として重油を流出させた。」と主張し、海鳥が重油まみれになっている映像をたびたびテレビで配信し、世論の同情を買おうとした。一方、イラク側は「多国籍軍による空爆により重油が流出した」と主張した。しかし、この「海鳥が重油まみれになっている映像」は湾岸戦争で録られたものではなく、オイルタンカー事故のものであることが判明した。
戦後の調査で、油まみれの鳥の映像を、巨額の報酬で宣伝していたCM会社が明るみに出て問題となっている。
アメリカ軍は、湾岸戦争に610億ドルを費やした。しかし、アメリカの自己負担は70億ドルだけで、サウジアラビアとクウェートが160億ドル、アラブ首長国連邦が40億ドル、日本が90億ドル、ドイツが70億ドルなど、大部分が他国の援助によりまかなわれたという(内訳は文献により異同がある)。
国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。総額で525億ドルの賠償を求め、「石油と食料交換プログラム」に基づき、石油収益の25パーセントをクウェートへの補償に当てるとした。 フセイン政権時代は、補償金を拠出するのを渋り続けため少額しか支払われなかったが、フセイン政権崩壊後も支払いは続けられ、2007年現在、4億6960万ドルが支払われた。 しかし、32件の個別被害のうち、28件が未だに払われていない。
パトリオット地対空ミサイル発射機(参考)この戦争において特にアメリカは数々の新兵器を投入したため「新兵器の見本市」「兵器の実験場」などと呼ばれることもある。最新鋭の兵器でなくても湾岸戦争で使用された兵器は販売と輸出に影響を与えた。中にはA-10攻撃機の様に、冷戦終結により一度は存在価値を失ったものの、湾岸戦争での活躍により再評価された物も存在する。
この戦争についていくつかの事例から「アメリカによって仕組まれた戦争でイラクはのせられた」とする考え方がある。そのような説の根拠はおおよそ以下のようなことだが、イラクがクウェートに侵攻したのは事実であり、非難されるのはイラクの方であるという考えが一般的である。
イラクは、イラン・イラク戦争でイスラム革命からアラブ君主国家を守ったと自負していたが、クウェートが100億ドルとも言われる戦時債務の即時返済を要求。それをイラクが断るとイラク・クウェートの国境地帯にあるルメイラ油田から大量採掘を開始。債務帳消しを要求するイラクにも問題はある。
米国政府は戦前・戦中にかけて、ことさらイラク軍の脅威を誇張し、世論を武力制裁やむなしと言う流れに変えた。しかし地上戦になると、実際のイラク軍は装備も貧弱で士気もまるで無く、多国籍軍の猛攻から逃げ回るばかりだった。ただし、この種の話はよくあることで、イラクだけが特別ではなく、また、将兵の士気の低さを指摘する意見もあった。
1990年7月25日に
FX
がクウェートの併合を示唆した際、アメリカの駐イラク大使エイプリル・グラスピーは「国境問題に介入するつもりはない」と発言。しかしこれはアメリカが他国間の領土問題に対する姿勢としては普通のものである。例えば竹島問題ではアメリカはノーコメントである[1]。
1990年7月31日のイラク・クウェートによるジッダ会談において、クウェート側がフセイン大統領が私生児であることを揶揄するなど侮辱的な態度を取った。ただし、クウェート侵攻の準備はこの日より以前に開始されているし、この会談の席でイラクは、領土割譲を要求してクウェート側を怒らせている。
1990年10月、クウェートの少女が米国議会において、イラク兵が病院で赤ん坊を床にたたきつけたなどと涙ながらに惨状を証言、戦争に疑問を抱いていた米国世論は一挙に反イラク色に染まったが、後に少女は駐米クウェート大使の娘で、現場にさえおらず、証言は虚偽であった事が発覚した。クウェートが占領された後の話で、戦争勃発原因とは関係ないが、アメリカの世論を反イラクに傾けることになった。
また、湾岸危機から戦争にかけて石油価格は値上がりし、欧米の石油メジャーは利益を得た。また、ソ連は和平工作をすることによって存在感を表したが、それは戦争直前のことであり、ソ連自身も産油国であることから、実際には石油価格値上がりを期待していたと思われる。
サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に
日経225
からF-15戦闘機など、強力兵器を導入していた上に、今回米軍の駐留を易々と認めたが、アメリカはイラク監視を名目に在バーレーン軍司令部とともに恒久的な基地としてしまった。イスラム教の聖地、メッカとメディナを
外為
するサウジアラビアに異教徒アメリカの基地を置くという動きにイスラム原理主義過激派は反発、特にサウジアラビア出身のオサマ・ビンラディン率いるアルカーイダなどが反米テロを引き起こしたとされる。過激派は数度にわたって米軍を襲撃したが、1996年のアラビア米軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名の米兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖で米軍艦『コール』を攻撃。2001年のアメリカ同時多発テロ事件と結び付ける考え方もある。
アメリカ同時多発テロとの関係と言えば、この戦争によるイラク攻撃の報復をあげられた事もあったが、イスラム原理主義のアルカーイダは、一応アラブ社会主義であるフセイン政権とは対立関係にあり、これは間違いと判明した。
(ただし、同じアラブ社会主義国であるシリアは対イスラエル政策のカードとして、レバノンのヒズボラに対して支援を行なっており、逆にシリア国内の原理主義勢力に対しては弾圧政策(1980年代初頭のハマ事件など)を取っている。このため、思想的に距離があったとしても、利害関係に一致する点(ここでは反イスラエル)が見出されば互いに手を結ぶ可能性は残されている)。
湾岸危機から戦争にかけて、石油価格が値上がりし、バブル景気に浮かれていた日本経済を直撃した。アメリカ合衆国政府は同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼したが、組合はこれを拒否。急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党左派や社会党などの反対によって廃案となった。
政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル(さらに、為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドル追加)もの多額の資金援助を行ったが、米国を中心とした参戦国から金だけ出す姿勢を非難された。
クウェートは戦後、参戦国などに対して感謝決議を出したが、日本はその対象に入らなかった。もっとも、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)の内、クウェートに入ったのは僅か6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカの手に渡ったことも要因となる。また、クルド人難民支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)の内、695億5000万円がアメリカの手に渡った(いずれも1993年〔平成5〕4月19日参議院決算委員会、外務省北米局長・佐藤行雄の答弁より)。
これを受けて日本政府は、国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させ、ペルシャ湾の機雷除去を目的として海上自衛隊の掃海艇を派遣、自衛隊の海外派遣を実現させた(自衛隊ペルシャ湾派遣)。これは戦後40数年間の自衛隊のあり方から逸脱しており、また自衛隊の海外派遣に反対する運動が高まり、国内を二分した。多額の援助を諸国にもっと評価させるべきとの主張もなされたが、日本政府は主に米国が要求する自衛隊派遣にこだわり、事実上黙殺された。
なお、クウェートが日本に感謝決議を出さなかったのは、クウェート外相の個人的感情によるものとの異説がある。かつて大平正芳が外務大臣であった時、来日したクウェートの外相と会談した。大平は目をつむって話を聞いたが、クウェートの外相は居眠りしていると勘違いして、怒って席を立ってしまった。彼は20年後の湾岸戦争時もまだクウェート外相の座にあり、大平への恨みを持つ人間が日本に対し感謝決議を出させるはずがないというのである[2]。
なお、この戦争では任天堂からアメリカ軍へ、「ゲーム会社が出来る唯一の戦時支援」として、当時発売されたばかりのゲームボーイが数万台送られ、現地兵士の暇つぶしとして役立ったといわれている。戦後、空爆を受けて倒壊した家から、表面が焼け爛れたゲームボーイが発見されたが、ゲームの起動にはまったく支障が無かったという話も残っている。