■GOLD LOANS

世界初の実用的なステルス機として1981年に初飛行を行った、アメリカ空軍の攻撃機である。機体形状はレーダーから発見されにくくするため、平面で構成されたくさびの様な独特の多面体の形状をしている。よって、空気力学的に不安定な形状となっているが、フライ・バイ・ワイヤ・システムによって操縦安定性の確保を行っている。1982年に部隊配備が始まり、1988年11月になって初めて国防総省が発表した不鮮明な写真によって公に存在が示される。それまでは詳細はおろか存在自体が極秘扱いだった。 本機は、主に夜間作戦に使用され機体表面の塗装も真っ黒なことから、愛称は「ナイトホーク」(夜の鷹)と名付けられた[1]。また、ステルス機である事と特徴的なデザインもあって、軍事の知識に乏しい者からはステルスの代名詞的存在となっている事も少なくない。メディアに採り上げられる際にも「ステルス」と呼ばれる事もあった。 1983年より実戦配備がスタートし、湾岸戦争等、いくつかの実戦で運用された。攻撃機として、主に重要施設への空爆を任務とした。現在までに撃墜されたのはコソボ紛争における1機のみである。1990年までに全59機の配備を完了。一機当たりの価格は約4500万ドル(2006年上半期)。なお、技術流出を防ぐ為、現在までに輸出は一切行われていない。 2008年4月22日に、その運用・維持コストの高さを理由に全機が退役した。 米空軍では引退させたF-117はアリゾナ州にあるトノパ実験場(通称、エリア52)で保管し、必要な事態が生じた場合にはいつでも現役に戻すと述べていたが、順次解体が予想される。 配備されるF-1171970年代中期、国防先進研究計画局(DARPA)は、アメリカ国内の航空機メーカー5社に対しステルス戦闘機形態の研究契約を締結した。当初ロッキード社は、1960年代以降戦闘機の開発経験が皆無であったことを理由に参入を見送られていたが、同社のスカンクワークス部長ベン・リッチの主導のもと自主開発研究を行い、国防先進研究計画局に働きかけ追加参入を成功させた。 1975年8月にノースロップ社およびロッキード社が招聘(しょうへい)され、XST: Experimental Survivable Testbedのプランが提示された。これに応じてロッキード社スカンクワークスのトップであったディック・シーラーは電磁気学のスペシャリストのデニス・オーバーホルザーに“見えない戦闘機”の開発が可能であるかどうか打診。オーバーホルザーは可能であるとの見解を示し、コードネーム「Echo1」と言われるレーダー波の物体表面での反射を計算するソフトウェアを作り上げ、引退していたスカンクワークスの数学者であったビル・シュローダーからのアドバイスと、50年前のソビエト連邦でピョートル・ユフィンチェフによって発表されていた電磁波の進行方向を反射面の形状から予測する論文を基にプロトタイプ機を開発した[2]。 ノースロップおよびロッキード両社のプロトタイプは小型の単座式であった点は共通だったが外観は大きく異なり、ノースロップ社の物はレーダー波反射面積の極小化させるために丸みを帯びた形状で、当時からサンディエゴのシーパークで有名だったシャチに似ている事からShamuとあだ名されたのに対し、ロッキード社の物は当初からレーダーを特定方向にのみ反射させる為に角張った形状を持っていた。軍配はロッキードに上がり、1976年の4月から開発が開始された。[3] 試作機の開発には、国防先進研究計画局の予算から約3,000万ドルが支出された。無論、この予算はその性格上、公にする必要がないものであった。試作機には「ハブ・ブルー(Have Blue)」というコードネームが与えられ、飛行テストはT-2Bバックアイのゼネラル・エレクトリック社製のJ85-GE-4Aエンジンを転用した。 最初の飛行空力実験機HB1001(1号機)は、J85-GE-4Aエンジンの排気口からの赤外線放射を最小にする事に主眼を置いて設計された。細長い形状を持っていたが、全体的に細身で大きさが量産機の約60%の縮小モデルであったため重量は4173〜5669Kgと爆撃機としては軽く、F-5フリーダム・ファイターの着陸用ギアやF-16のFBWが転用されていた。また、垂直尾翼が内側を向く等、量産型とは形状がやや異なる。これら部品の流用により、試作機2機に要した予算は3,700万ドルに抑えられたという。 ハブ・ブルーのスペックは以下の通り。 1977年11月4日に、ロッキード社のバーバンクの施設で最初のエンジンテストが行われた。その後も空港が閉鎖された真夜中に限定した上で、カモフラージュ用のネットがかぶせられて実験が繰り返された。近隣からはそのノイズによる苦情があったが機密は保持され、後にネバダのグルーム湖にその場は移された。 契約締結からわずか20ヶ月しか経っていない1977年12月1日に初飛行テストが敢行される。35回のテスト飛行が無事行われたが、1978年5月6日に行われた36回目のテストで着陸に失敗。右主脚が途中まで引き込み、ロックができないと判断されたため、高度3,000mまで上昇したのち燃料を完全に消費しパイロットは脱出した。エンジンが停止したHB1001は、背面姿勢のまま地上に落下し大破した。また、パイロットのビル・パークは射出座席が分離せず重傷を負い、引退を余儀なくされた。 事故前から製作が始まっていた2機目のHB1002が、1978年7月20日(同年3月から4月には既に初飛行を行ったとの説あり)に初飛行し、試験飛行を引き継いだ。後に52回の飛行が行われたが53回目の飛行中に油圧系統の故障によりエンジンから発火、炎上した。この2機の破損した実験機は極秘裏に処分され、F-117およびB-2と言ったステルス機が公開されるようになった現在でもトップシークレット扱いで、わずかに公開された写真を除きその詳細は不明のままである。[3] 両機とも失われたハブ・ブルーであったが、飛行試験中はアメリカ空軍が誇る早期警戒管制機E-3ですら極めて短距離での状況以外、探知はできなかった等、ステルス機としての性能を見せつけた。 1978年11月、アメリカ議会は極秘に実用型ステルス戦闘機の開発を承認、本格的な開発に移行した。 爆弾を投下するF-117実用機であるF-117の初飛行は、1981年6月18日にグルームレイクで行われた。ロッキード社はF-117を、カリフォルニア州パームデールのスカンクワークスがアメリカ空軍工場42号(ロッキード工場10号)で製作した後、極秘にグルームレイクに輸送、組み立てを行っている。 機体の形状は、レーダー波を特定方向にエステサロン させる反射角を持たせるためひし形になっている。当時のコンピュータの能力では曲面のシミュレートは事実上無理があり、シミュレーションが容易な角ばった機体となった。他の従来の機体とは似ても似つかぬ形状であることからも解かるように、航空力学的には飛行に不向きな形状であるため、飛行姿勢は4重に管理されたデジタル・フライ・バイ・ワイヤによりコンピュータ制御されている。逆にいえば、コンピュータの支援があってこそ飛ぶことができる機体といえる。 直線基調の機体であり最初に公表された1枚きりの写真が機体各部の角度を読み取りにくい方向から撮影されていたため、それを元に作成された非公式な三面図は、実機とはかなり違う寸詰まりなものとなっていた。のちに正式な三面図が発表されて、やっとその間違いに気付くほど、当時は情報公開が少なかった。 F-117の実機が完成してすらいなかった1980年(81年説あり)から、既にアメリカ空軍はアメリカ戦術空軍団直轄部隊としてトノパー実験場(Tonopah Test Range::TTR)にステルス戦闘機部隊「第4450戦術群(the 4450th Tactical Group)」を編成している。この第4450戦術群の下に第4450戦術戦闘飛行隊を編成し、F-117の随伴機A-7D攻撃機を配置した。 当初はF-16の配置が予定されたが、レーシック 価格の高さからA-7Dに決定された。これは同時に、まだステルス機の存在が秘密であった初期のころは第4450戦術部隊を"A-7飛行隊"として秘匿することにも役立った。カモフラージュとして用いられたA-7Dは後により安い経費で維持可能なT-38タロンに置き換えられたが、転換訓練を行なうパイロットはA-7Dで慣熟飛行を行っていた。[3] 最初のF-117の配属が決定したのは1982年5月であり、ジェームス S. アレン大佐が指揮を執る事となった。大佐は1983年8月23日の部隊によるF-117の初飛行も自身で行っている。部隊は1983年10月28日に稼働したが、十分なF-117はまだ配給されていなかった。このためパイロットの飛行時間を維持する事が課題となり、飛行特性が似ていると言われるA-7Dを使ってパイロットの飛行時間を延ばした。 1988年1月、アメリカ軍事月刊誌「アームド・フォーセズ・ジャーナル」が、それまで伝えられていたステルス戦闘機F-19は存在せず、F-117というステルス機が極秘で配備されているというスクープを行った。このスクープを受けたアメリカ美容整形 総省は、いつまでも秘匿としておく事が難しいと判断し、同年11月10日にF-117の存在を公的にはじめて発表した。 この時明らかにされた項目は以下の通り。 アメリカ空軍とロッキード社による開発で、F-117はすでに実用段階となり昼間飛行を行う段階に達したこと 開発計画は、1978年に開始されたこと 初飛行日時と1983年に初期運用段階に達したこと この計画は終始、アメリカ議会委員会の特に超党派から支持を受けたこと 機体はV字型尾翼を有する双発機であること 59機の発注がなされ、すでに52機が納入済み トノパー基地の第4450戦術群に配備され、運用段階に移行していること 第4450戦術群には練習機としてA-7Dが20機配備・使用されていること 過去に2機が墜落し、乗員2名が死亡していること この乏しい内容に記者たちは質問を浴びせたが、国防総省の報道官は「ノーコメント」を連発している。回答を拒否した項目は以下の通りであった。 実戦初参加は1989年12月19日に行われたオペレーション『Just Cause』の支援である。当初この作戦はパナマで一大麻薬組織と結託する独裁者マニュエル・ノリエガの誘拐であり、2機のF-117が参加したが途中で作戦目標がリオ・ハトのパナマ防衛軍(PDF: Panamanian Defence Force)を混乱させることに変更され、バックアップのために急遽別の2機が作戦に参加。最終的に更に2機が追加され、合計6機が作戦に加わった。この編隊はネバダのトノパーから出撃し、5回の空中給油を受けて目標へ飛行、2000-lb GBU-27A/BおよびBLU-109B/I-2000を投下したが目標の兵舎から数百フィートも外れて着弾し、作戦は後に議会から失敗だったと叩かれた。なお、このとき最初の爆弾投下を行ったのはグレッグ・フィースト少佐で、後に『砂漠の嵐』作戦に参加しイラクでの爆撃も行っている。[3] F-117が一躍有名となったのは1991年の湾岸戦争の際である。視力回復 が命中するシーンの映像などが連日テレビで流されハイテク戦争を印象付けた戦争ではあったが、実際にはF-117以外の一般の部隊はコストの問題から誘導爆弾が使われた比率は少なく、ほとんどは無誘導爆弾が使われた。一方、F-117の部隊においては終始GBU-27誘導爆弾を使用している。湾岸戦争では44機が参加。42日間、合計1271回の爆撃を遂行し、1機も被害を出さなかった[3]。バグダッド上空を飛んだ唯一の航空機である。