■HARVEST
1985年から導入されたM1A1は対化学兵器防御能力を備え、装甲を強化している。なお湾岸戦争において配備されていたM1A1の大多数に対して劣化ウランプレート(劣化ウラン装甲材)を装着する改修が急遽実施されている。このウランプレートを装着する改修を受けた車両はM1A1(HA)に分類され区別される。
1987年初めからM1A1向けの装甲強化パッケージの提供が始まり、砲塔正面と車体正面の装甲内に網状の劣化ウランを組み込むようになっていた。
M1A1をさらに改良したM1A2は、劣化ウラン装甲が張り巡らされ防御力の強化が図られ、アメリカ軍向けには試作車輛を含む77輛が生産された。改修計画SEP(System Enhanced Package)は、1999年から始まっており、旧型となった一部のM1やM1A1は、M1A2やM1A2 SEPに改修されている。
ガスタービンエンジン各国の戦車用動力機関はディーゼルエンジンが主流であるがM1ではガスタービンエンジンを採用している。
ガスタービンエンジンは小型軽量、高出力で信頼性、加速性能、登坂能力も高く、燃料の許容範囲が広い、動作温度範囲が広い、冷却水が不要など多くの長所もあるが、燃料消費率が悪く[3]、搭載燃料の容量を各国の第3世代主力戦車に比べて2倍近くにしている。低速/停車時の燃費が極めて悪いため、アメリカ陸軍では停車時の電力供給を目的に補助動力装置を内蔵するようにした[4]。
地上を走る戦車は吸気により塵砂を吸い込んで故障の原因となり、吸気フィルタを強化するなど手を加えねばならず、燃料タンクの拡大と合わせるとエンジン小型化の利点は相殺されている。
湾岸戦争では大量の燃料を供給し続けることで燃費の悪さを補ったが、これは兵站上の負担であり、M1の他にガスタービンエンジンを戦車で採用しているのは旧ソ連製のT-80だけである。
MCD
2008年の現在では、いくつかの車両にMCD(Missile Countermeasure Device)と呼ばれるミサイル対抗装置が取り付けられている。この装置で有線/無線式の半自動誘導対戦車ミサイルと全自動式赤外線誘導式の対戦車ミサイルの誘導システムを無効化する。本装置は砲塔上面の装填手ハッチ前に設置されている。
TUSK
Tank Urban Survival Kitの略で市街戦など都市環境下での運用に対応させる為の強化キットのこと。対戦車兵器から発射される成形炸薬弾に対する防護を念頭に車体側面に爆発反応装甲タイルを装備、また、防盾上に主砲同軸のブローニングM2重機関銃を追加するなどの内容。2007年頃からイラクで運用中のM1A1やM1A2の一部に取り付けられているが、開発段階のイメージ写真で有った砲塔上の遠隔武器ステーションや車体後部のスラット装甲が無いなど異なる点が幾つかある。
煙幕弾発射筒
スモークグレネード弾発射筒とも呼ばれる煙幕弾発射筒が6個1組で左右に1組ずつ
住宅ローン
側面に取り付けられている。米陸軍版のM1A1だけは8個1組の2組となっている。この煙幕は肉眼像だけでなく熱線映像も遮る。煙幕弾の代わりにチャフを発射することも出来る。従来は操縦手の操作でエンジン排気管内に燃料を噴霧することで排気で煙幕を発生させる仕組みが備わっていたが、使用燃料がディーゼルからJP-8に替えられ、JP-8は排気管内に燃料を噴霧すれば容易に火災が生じるために、現在ではこの機構は使用出来なくなっている。
M1エイブラムス戦車には4名の乗員が搭乗する。開発当時は自動装填装置の搭載も可能とされていたが、乗員の減少に伴う負担増加が懸念された事から採用が見送られた。 車長は砲塔の右後方で砲塔上から周囲警戒したり車内から画像によって索敵を行い、攻撃目標を砲手に指示する。砲手は砲塔の右側で車長の足元前方に座り、戦闘中はほとんど移動しない。 装填手は砲塔の左側で比較的広い空間を占有し、装填以外にも車長を補佐して周囲警戒や無線通信を担当することもある。操縦手は車体前方中央の4人の中では最も狭い空間に、戦闘中は仰向きに近い姿勢で座り、操縦に専念する。
Tal Afar市内を警戒中のM1A2(2005年2月3日)M1A1が1991年の湾岸戦争において初めて戦場に投入され、サウジアラビアに展開した。M1A1は、イラク軍が配備していたソ連製戦車のT-72・T-62・T-55に比べて性能で大幅に勝り[5]、3,000m以上の遠距離からアウトレンジ攻撃(敵の射程外から攻撃)をすることができた。そのため、あまり反撃を受けず、M1A1の損害は十数輛といわれている。しかし、当時のM1A1は敵味方識別装置を持たず、また激しく
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の舞う砂漠の戦いで熱映像装置(サーマルサイト)の性能が不十分だった為に同士討ちが多発し、この十数輛の損害の半数は同士討ちによるものといわれている。
コソボ紛争以降に投入されるM1A1/A2に敵味方識別装置が装備された。
2003年のイラク戦争にも投入され一定の戦果を上げたが、戦争後は至近上方からラジエーターグリル等の脆弱箇所を狙う武装勢力のRPG-7(対戦車擲弾)による攻撃や、対戦車地雷・即席爆発装置などによる被害が目立った。
主砲弾や一部の装甲に使用されている劣化ウランは、戦地から帰還した将兵の間に発生した「湾岸戦争症候群」「バルカン症候群」と呼ばれる病気の原因物質ではないかと一部で疑われているが、因果関係ははっきりしない。T-72(ロシア語:Т-72)は、1971年にソビエト連邦で開発された主力戦車。同国のT-64を補完する形で開発が進められ、技術的にはアメリカのM60パットンやドイツのレオパルド1、イギリスのチーフテンと同じ第2世代にあたる。同世代の戦車の中では攻撃力・機動力・防御力のバランスが良かったとされる。今日の第3世代の戦車と比べると見劣りはするものの、旧東側陣営で数多く生産された事もあり、バージョンアップを施したT-90などを中心に現在も数多くの国々で使用されている。
1960年代、ソ連はT-64戦車を新たな主力戦車として配備を進めていたが、当時の最新技術を詰め込んだ結果、L60ディーゼルエンジンをはじめ主砲の命中率の悪さや自動装填装置の不具合、足回りの問題など数多くの問題点が露見していた。そして最大の問題はその生産コストの高さであり、充分な数を配備することが厳しい状態だった。
こうした中、T-64よりもより堅実で安価な戦車の開発が、1967年からT-64Aの車体をベースとした「オブイェークト172」として始まり、「オブイェークト172M」としてプロトタイプが完成した。1971年から1973年にかけての各種試験を経て正式にT-72として採用され、1974年よりチェリャビンスク・キーロフ戦車工場にて、従来のT-55及びT-62の生産ラインから全面的に切り替えられ、生産開始された。
T-72は旧共産主義圏にて、1970年代からソ連崩壊の1991年までもっとも多く使われた戦車である。また、
M&A
条約機構加盟国以外にもフィンランド・イラン・イラク・シリアなどにも輸出され、インドやユーゴスラビアなど他の多くの国でもライセンス生産やコピー品が作られた(北朝鮮にも「暴風号」という名で配備されているという説もあるが、詳細は不明)。
当時ワルシャワ条約機構に
CFD
していたポーランドとチェコスロヴァキアでもライセンス生産されたが、オリジナルより装甲面などでスペックダウンした物だった。例えば、ポーランドで生産されたT-72Gはソ連軍のT-72では複合装甲だった砲塔前半部が410mmの通常装甲となっていた。
ソ連でも1990年までに自国製の輸出用モデルが開発され、アラブ諸国を中心に大量に輸出した。これらのモデルもやはり装甲や主砲の威力等に大幅なスペックダウンを施した物であった。(このような兵器を俗にモンキーモデルという。)
こうしたことから、外見は同じT-72であっても、ソ連モデル、ポーランドモデル、チェコスロヴァキアモデル、ソ連輸出モデルでは多くの部品が共有できず補給・メンテナンスなどの兵站での問題を発生させる要因となった。
1980年代にはイラクに対しチェコスロヴァキアやポーランド、ソ連がT-72を完成品を輸出した。後には、半完成部品をイラクで組上げるノックダウン生産も行われ、自称「国産型」の"Assad Babyl“(バビロンのライオン)と命名された。またイラン・イラク戦争で使用した直輸入品のT-72の砲身寿命が短く、ソ連からの交換部品の供給も滞ったことから、イラク国内に砲身工場を作ることになり、これがライセンス生産化の始まりであったという。なおユーゴスラヴィア型のM-84はクウェートに輸出され湾岸戦争でイラクに対する戦闘に使用され、後にイラク戦争後の新生イラク軍にも導入されている。
ソ連はT-72の採用後も数多くの改修を実施し、1979年にはT-64でも採用していた複合素材の装甲を車体前部を中心に取り付ける事により防御力の強化を実施、1980年代には爆発反応装甲(リアクティブ・アーマー)が追加された。