■INDEX

教育面に関しては、ユネスコからの表彰も受けており、一部では、サッダームの行った弾圧は現イスラム世界において宗教的価値観を取り除き国家を成長させるに必要なことであったとの意見もある[要出典]。 また、サッダームは自分への個人崇拝も進め、イラク国内には彼の巨大な彫刻、像、肖像画やポスターが飾られるようになった。 イスラームを政治から遠ざけたサッダーム・フセイン政権においては、「世俗主義的なイラク愛国主義」が主導的なイデオロギーであった。この思想においては、イラク国民とはすなわち古代メソポタミアの民の子孫であり、サッダームは、ネブカドネザル2世やハンムラビになぞらえられる偉大な指導者、現代のカリフ、あげくの果てに預言者ムハンマドの子孫と喧伝された。 ただし、アメリカ合衆国との対立姿勢を明確にした後は、キリスト教社会との対決を訴えるレトリックとして、イスラーム世界の連帯を唱え、イラク国旗に「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」の文字が加えられる。このことからわかるように、彼は必ずしもイスラームという宗教を否定していたわけではない。 男尊女卑の強い中東において「名誉の殺人」が数多く行われていた中、この「名誉の殺人」を非難した指導者であることは、あまり知られていない。 ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告によるとサッダーム政権下で約29万人が失踪あるいは殺害されたと報告している。 ラムズフェルトと握手するサッダーム詳細はイラン・イラク戦争を参照 1979年、イラン革命によってイランにシーア派のイスラム共和国体制が成立し、イラン政府は極端な反米活動を展開した。しかし、革命の波及と政権転覆を恐れる周辺のトルコ・サウジアラビアなどの親米派アラブ国家やアメリカ合衆国の非難を浴びた。 中東の反米政権を潰す目論みを立てたアメリカ合衆国のロナルド・レーガン政権は、1984年にイラクと国交を回復し、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の兵器供給を行った。 1983年12月19日、レーガン政権から派遣されたドナルド・ラムズフェルドがイラクを訪問し、サッダームと90分におよぶ会談を行った。 サッダーム・フセイン政権は、1980年から1988年まで国境紛争でイランと戦い、この戦争のさなか1988年3月に、サッダーム・フセイン政権が国内に住むクルド人に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った(ハラブジャ事件)。当時のアメリカ合衆国のレーガン政権もこれを黙認した。 イラン・イラク戦争でアメリカ合衆国がイラクを支援した理由には、イランが他の中東諸国にイスラム革命の輸出を行なえば、サウジアラビアやクウェート、アラブ首長国連邦などスンナ派が実権を握る宗教色の薄い親米政権が危うくなり、石油の確保などアメリカ合衆国の利益も危ぶまれる可能性があったからだとされる[要出典]。 アメリカ合衆国は、ラムズフェルドを特使としてイラクに派遣、全面的な支援を約束した。武器提供・石油パイプラインの建設などで、イラン・イラク戦争の開戦を促した。 イラクとアメリカ合衆国の会談の際、話が化学兵器に及ぶと、アメリカ合衆国国務長官のジョージ・シュルツは「我々は、特に問題視していない」と答えた。そのため、イランと結びつく危険のある国内の反対勢力である少数民族のクルド人に対して化学兵器が使用されたとされる。また、イギリスメディアによるとこの時期、イラクに向けて化学兵器・生物兵器の原料がアメリカ、イギリスから輸出された。 1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東の軍事大国へと押し上げる一方で1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、以前からイラク人によってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。 アメリカ合衆国は中東の軍事バランスを抑制するためイラクへの支援を打ち切っている。 サッダーム・フセイン政権は、1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言する。しかし、アメリカ合衆国をはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争でアメリカ合衆国を主力とする多国籍軍に敗退した。 敗戦による政権の隙をついて、国内の反体制シーア派が政権への反乱を起こした。しかし、シーア派が期待したアメリカ合衆国の支援はなく、サッダーム・フセイン政権は鎮圧に成功する。この際、反逆者に対して、虐殺を含む非常に苛烈な報復が行われた。 これ以降、さらなる強権政治により、 勢力を押さえ込むことで、サッダーム・フセイン政権はかえって安定化した。国内では秘密警察による反対派への弾圧、拷問、不当逮捕などが繰り返された。 湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカ合衆国を主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器などの大量破壊兵器は廃棄したという。 アメリカ同時多発テロ事件以降のアメリカ合衆国は、アルカーイダを支援しているとしてサッダーム・フセイン政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時の国防長官であった副大統領ディック・チェイニーを中心とする政権内部のネオコンで既に議論されていたようである。 2002年1月、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ政権は、イラクをイランや北朝鮮と並ぶ「テロ支援国家」と名指しで批判した。2002年から2003年3月まで、イラクは国際連合の兵器査察を受けつつ、アメリカ合衆国による武力攻撃の危機にあった。 2003年3月20日、アメリカ合衆国大統領ブッシュは、イラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ合衆国軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。 開戦初日の20日に、IPO は長男ウダイが経営する「シャハーブ・テレビ」を通じて録画放送ではあったが国民向けの演説を行い、自信の健在をアピールした。この時のサッダームは普段の演説スタイルとは違い、場所不明の部屋の椅子に座り、老眼鏡を掛けて演説原稿を何度も折り返しながら読んでおり、欧米メディアやアメリカ政府当局者などが「演説しているのは影武者」「最初の空爆で死亡もしくは重傷を負った」などと憶測報道・会見を行なった。その後、開戦初日の攻撃はサッダームの誤った所在情報を下にして行なわれた作戦であったことが明かされた。 4月9日、バグダードは陥落したが、サッダームは既に逃亡していた。アラブ首長国連邦の衛星チャンネル「アル=アラビーヤ・テレビ」は、サッダームが次男のクサイと共にバグダード北部のアーザミーヤ地区を訪れ、サッダームを支持する群集の前に姿を現した映像が放送された。 AP通信が2007年12月に、当時その場にいた元教師Abu Rimaの証言を元に報じた取材記事によると、この時サッダームはアーザミーヤ地区にあるアブー・ハニーファモスクの前に現れ、小型トラックの上に立って200人の群集を前に「我々がアメリカ人を撃ち破るなら、私はアーザミーヤに黄金の記念碑を建てることを人々に約束する」と語ったという。丁度その時、同じバグダードのフィルドゥース広場では米軍と市民によりサッダーム像が引き倒されていた。 Abu Rimaによるとサッダームは、4月9日の昼過ぎにアブー・ハニーファモスクに現れ、次男のクサイ、大統領官房のアービド・ハーミド・マフムード、国防相のスルターン・ハーシム・アフマドを伴っていたという。サッダームは軍服、クサイは紫のスーツを着ており、小型トラックの上に立っていた。ある女性がサッダームに「あなたは疲れているように見えます」と声を掛けると、「私は疲れていません。インシャッラー、イラクに勝利を」と話したが、明らかに疲れた様子だったという。その日の夜サッダームは同地区にあるアブー・ビシャール・アル=ハアフィーモスクに一晩泊まった後、翌10日の午前6時ごろ、川を船で渡って対岸のカーズィミーヤ地区に向かって姿を消したという[1]。 また、同じ9日に撮られたと思われる最後の国民向け演説の録画テープが、バグダード陥落後に発見され、メディアに公開された。未編集だったのか、テープには演説途中に咳き込んで演説を途中で止めたり、カメラマンに「今のは大丈夫か?」と尋ねるサッダームの様子が写っていた。 5月2日、ブッシュ大統領はペルシア湾上に浮かぶ空母にて外貨預金 、「戦闘終結宣言」を出した。 逮捕直後のサッダーム。サッダームは、戦闘終結宣言以降も数か月間行方不明であったが、2003年12月14日、アメリカ合衆国軍により逮捕された。アメリカ合衆国軍による取調べに対しては、「サッダーム・フセイン元大統領か?」という問いに対し、「サッダーム・フセインイラク大統領である」と答えた。 2004年7月1日、為替 住民虐殺などの罪で訴追され、予備審問のためイラク特別法廷に出廷した。予審判事に「あなたの職業は?」との質問に「イラク共和国大統領だ」と答え、判事に「"元"大統領ですね」と聞かれると、「今も大統領だ」と反駁した。また、容疑に1990年のクウェート侵攻が加えられていることに「共和国防衛隊がイラクの権利を行使しただけだ」「公的行為が犯罪なのか?」と声を荒げる一幕もあった。また起訴状に署名するよう促されたが「弁護士が来るまで署名はしない」と拒否した。この審問の様子は映像で公開されたが「ブッシュこそ犯罪者」と語った場面は放送されず、返ってイラクのスンナ派地域やアラブ世界にサッダームの威信を高めるだけとなり、以後予審は2回ほど行なわれたが、音声無しの映像公開となった。  サーリム・チャラビー・イラク特別法廷長官(当時)によると、予審前の6月30日にサッダームと3、4分面会した。主権移譲によりサッダームの身柄が米軍からイラク暫定政府に移ったことを説明するためだが、「私はサッダーム・フセイン。イラク共和国大統領だ」と居丈高に告げたという。サッダームは拘束時に伸びていたあごひげをそり落とし、トレードマークの口ひげを生やしてアラブの伝統衣装を身にまとっていた。健康そうだったが拘束当時よりも痩せており「とても神経質そうだった」という。この間、サッダームはずっと座ったままで、周りに立っているサーリム・チャラビーらに質問しようとしたが、チャラビーが「明日まで待ってほしい」とさえぎったという。 2005年10月19日にバグダードの特別法廷で初公判が開かれた。だが、初公判の時に裁判長の質問に答えずにコーランを法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、裁判そのものに対する拒否の意思をはっきりと示した。また、職業を聞かれた際は、「共和国大統領だ」と発言し、暗にイラク戦争の不当性を訴えている。この裁判の翌日、サッダームの弁護士の1人が誘拐され殺害された。また、11月にも弁護士の1人が殺害され1人が負傷し、サッダーム弁護団の警備強化をイラク政府に訴えた。 2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラーム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇」だとして非難した。 2006年12月30日、サッダームは、バグダードにて絞首刑による死刑が執行された。(サッダーム・フセインの死刑執行)アメリカは処刑を遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリ・マリキ政権は国内の「大統領派」が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず関係者共々執行した。 フセインは、イラクが核兵器を開発済であり、核兵器を完成させて密かに国内のどこかに隠し持っているかのように振舞い続けた。死の直前にあたり、裁判関係者から「なぜ、かかる愚かな行為をしたのか」と問われた際、フセインは「核兵器を持っていないことが明らかになると、核を持っているイランに攻め込まれ、国家がなくなってしまうのではないかとの恐怖があったから」と答えている。