■INRO

1992年1月7日に来日した際、最初に京都御所を見学し、その場で行われていた蹴鞠に飛び入りで参加した。翌日、今上天皇(明仁)と2回テニスのダブルスで対戦しているが、2回ともブッシュ側が負けている。その日の宮澤喜一総理大臣主催の晩餐会の最中、突然椅子から崩れるように倒れ、その様子は世界中のマスメディアがトップニュースとして報道した。バーバラ・ブッシュ夫人がとっさの機転で「ブッシュ家は負けることに慣れていないのです」とジョークを飛ばし、その場を救った。日本政府は、慶應義塾大学病院を手配したが、アメリカ側は、ただのインフルエンザに過ぎないからとこれを受諾せず、アメリカ大使館の医務官が対応した。 大のブロッコリー嫌いで知られており、大統領専用機の機内食のメニューからブロッコリーを削除した。また、「ブロッコリーは嫌い。二度と食べない。ポーランド市民がソ連と闘ったように私もブロッコリーと闘う」と発言したことに怒ったブロッコリー農家から、大量のブロッコリーを送りつけられたことがある。 太平洋戦争で撃墜された愛機の名前は後の妻の名前である“バーバラ”だった。ちなみに撃墜された後、3日間、太平洋をひとりぼっちで漂流し他の4人のパイロットとともに潜水艦フィンバックに救助された。なお、このとき他にも4機の米軍機が撃墜されたが、8人の米軍兵士が捕虜として日本兵により人肉食されていたことが戦後の裁判で明らかになり、日本国民はその事実に驚愕することになる。この小笠原事件は、ブッシュの対日観に長いこと影を落としたといわれている。 BA149便はロンドンのヒースロー空港を1990年8月1日午後6時15分(世界標準時)に出発した。149便はボーイング747(機体記号:G-AWND)で運航され、経由地2箇所を経て最終的にはマレーシアのクアラルンプールに向かうフライトプランであった。 出発前には「クウェート情勢が緊迫している」との報道が行われていたにもかかわらず、BAは経由地を変更しなかった。しかし、149便の出発直後、イラク軍がクウェートを侵略する軍事行動を開始した。その様な状況下にもかかわらず、149便は予定されていた給油を行うために侵攻開始からおよそ4時間後の8月2日午前3時にクウェートに着陸した。 この時にはイラク不用品回収 によってクウェート国際空港への攻撃が行われていたため、乗員乗客385名[1]は緊急脱出をしたが、全員がイラク軍によって拉致された。 報告によれば[1]、客室乗務員がイラク軍兵士に強姦される戦争犯罪が発生し、乗客であったクウェートの王族1名が処刑[2] されたという。また乗客のうちイラクと敵対した欧米諸国の国籍を持つ乗客は、他のクウェート国内にいた欧米諸国の市民とともに、イラクの首都バグダードに強制連行され、多国籍軍からの攻撃をかわすための『人間の盾』として人質とされた(この行為はジュネーヴ条約で禁止されており国際法違反)。 乗客は湾岸戦争が始まる12月までに殆ど解放された。一方149便の機材は多国籍軍による空爆で損傷を受け、1991年2月のイラク軍クウェート撤退時には完全に破壊された。 一方、拉致された乗客の一部から、「粗大ごみ が差し迫っていたにもかかわらず航空会社が運航予定をキャンセルしなかった上、クウェート国際空港が攻撃下にあるのにもかかわらず同空港に着陸したのは、イギリス政府によってスパイもしくは特殊部隊SASをクウェートに輸送するためであったからだ」という主張があった。イギリス政府は陰謀説の類であるとしてこれを認めなかった。 なお、後日同機にはイギリス軍の特殊部隊隊員2名×4チームが搭乗し、開戦後に偵察任務を行なっていた事が判明する。これらの事実を受けてフランス人の乗客たちは1999年7月15日に250万ポンドの損害賠償を勝ち取った。 湾岸戦争症候群(わんがんせんそうしょうこうぐん:Gulf War Syndrome)とは、1991年の湾岸戦争に従軍したアメリカ軍・イギリス軍等の多国籍軍兵士に、集団的に発生したとされる脱毛症・疲労感・痛み・記憶障害・倦怠感や関節痛などの一連の病状を総称したものである。また、帰還兵のみならず、出産異常や子供達の先天性障害の多発が報告されているとの説もあるが、原因の特定は現在に至るも出来ておらず、この症候群の存在そのものを疑う向きもある。 黒煙を上げる重油湾岸戦争終結後、整体師 した米兵約70万人のうちの5000人から8万人が、症状に差はあるものの、疲労感・痛み・記憶障害・倦怠感や関節痛などの症状を発症した。また癌や白血病、子供の先天性障害が多発したとの説もあるが、根拠となる明確なデータが明らかにはなってない。原因としてイラクの生物・化学兵器や伝染病、殺虫剤、油田火災の黒煙などが挙げられていたものの、国防総省はイラクによる生物・化学兵器の使用を否定していた。しかし、その後の国連による調査で、イラク南部の兵器庫にサリンが貯蔵されていたことが判明した為、1996年に米兵が被曝した可能性を認めた。 だが、神経ガスの防御用に強制投与された試薬や生物兵器用の予防接種、油田の火災や大量の石油流出による大規模環境汚染、米軍が戦車の砲弾や装甲材に大量使用した劣化ウランによる放射線被爆など、他にも様々な原因が挙げられた。 が、しかしこれらの暴露はどれも原因や病気に結び付けるには無理があり(たとえば神経ガス対策に投与された薬は臭化ピリドスチグミンという重症筋無力症の治療薬であり、この薬を投与された人で同様の症状が起こっているという報告はない。他の説も同じである)、疫学調査は暴露集団において原因となる物質への明確な暴露も、これらの人々の間における死亡率の増加も見出していない。 また症状が上記のように、注意力低下や記憶障害、不眠、鬱、頭痛等の客観的に判断しにくいものが大半を占め研究を難しくしている。 記憶力、論理的思考力、集中力、注意力の低下 不眠 うつ状態 疲労感 頭痛など この他にもめまいや筋肉疲労、勃起障害などが挙げられる。 ただし、こういった症状はベトナム戦争からの帰還兵にもみられた症状であり、やはり湾岸戦争のケースにのみ特質すべきことではない。 原因の一つとされた30mm口径の劣化ウラン弾2003年のイラク戦争終戦後も、湾岸戦争症候群と類似した症状を訴える帰還兵が現れた。また、現地のイラク人にも癌や白血病、子供の先天性障害が増加し、第二の湾岸戦争症候群ではないかとされた。原因としてアメリカ軍が使用した劣化ウラン弾が挙げられたが、こちらのケースも特定は難しく、直接的な原因の解明はなされていない。 1961年にイギリスから独立し、1978年の新憲法制定後、一党政治で政権を担うが、失政や弾圧により、経済は破綻状態に陥った。これにより、治安が著しく悪化、いつ内戦が勃発してもおかしくない状態となる。 シエラレオネでは1985年からシアカ・スティーブンス大統領の独裁政権に代わって、軍の指導者ジョセフ・サイドゥ・モモ陸軍少将が後継者としてシエラレオネの政権を握った。モモ大統領はスティーブンスの1党政党政を終わらせる政策を取るなど、大規模な内閣改造が行われたが、モモも暗殺計画が企てられ、副大統領のフランシス・ミナーを始めとする、60人以上が逮捕され、モモの独裁政権に反対する動きがあった。1987年モモの独裁政権を倒すためアハメド・フォディ・サンコーがリビアに行き、そこで軍事訓練を受け革命統一戦線(RUF)を結成した。そしてリビアのムアマル・カダフィ大佐に紹介され、サンコーはシエラレオネの隣国リベリアのチャールズ・テーラーと出会った。テーラーもサンコーと同様の考えを持っていた。リベリアで独裁政治を展開していたサミュエル・ドウ大統領を倒すため、カダフィ大佐の元で革命の戦いの軍事訓練を教わっていたのである。そして1989年12月テーラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)はリベリアに侵入し武装蜂起した。